八時間後に通過する「モスクワ上空の混雑」のため一時間ほど遅れて、十月十日、□□
私は成田を出発した
『ロンドン市街』と『大英博物館』。大英博物館は入場は無料で、多くの小学生が先生と「勉強」に来ていた。

ウィーンの女性は怖い!

つつがなくロンドンに三泊した後、ウィーンに出発。ロンドンでも街並みの美しさに
圧倒されたが、ウィーンはそれにもまさる「宝石」だった。(若い)女性も「街」以上
であったが、しかし、厳しかった。
ある広場で、モーツァルト風のいでたちの若者、男女数人が何やら客引きをしていた。
そのうちの一人が、美しい笑顔で寄ってきて「記念写真を一緒に撮らない?」と
ドイツ語で話しかけてきた(セリフは推測)。私もにこやかに、「ナイン」と断ると、
急に怖い顔になり、「チッ!」と舌打ちをして行ってしまった。
そのあとに行った「美術史美術館」でも同じ目にあったところを見ると、当地の標準
タイプの女性らしい。

花柄タイルの外壁が美しい『マジョリカハウス』(1890年建設)とハブスブルグ家の『シェーンブルン宮殿』の中庭。

社会保障も充実していた。

ウィーン市は人口百六十万人であるが、大学はウィーン大学一つしかない。授業料が
無償にもかかわらず、進学率は非常に低い。夜のナントカ通りに“ジュリアナ”ファ
ッション(今となっては古いが…)で寒空に立っていたお嬢さんたちにも、35年(!)

勤めあげると、最終所得の70%が保障される「年金」が支給されるくらいで、その
ため中学を卒業するか、遅くとも高校まで行くと、ほとんどの子供たちは働き始める
という。
ウイーンの街角風景。いたる所に花が飾られ、「看板」なども趣が深い。

ドイツのおばさんも元気だった。

観光バスで団体旅行をするのは日本人だけかと思ったら、あちらこちらに「ヤーパン、
ヤーパン」と後ろ指をさす団体がいた。多かったのは、ドイツの(地方の)かたのよう
だったが、その中の、おばさんたちはものすごく元気で、レストランではビールを飲
んでは大きな声で歌いだすし、道を歩きながらも『高歌放吟』、賑やかで明るかった。
(おじさんたちも、いるにはいたが、みな慎ましかった。)

ドイツのおばさんたちが(とくに)元気だった『レストラン』と、夕闇迫る『ウイーン市街』。

イタリアでも色々あった。

ウィーンを出てからイタリアヘ。ミラノ、べローナ、ベネツィアと回り、それぞれに
美しく良い町だった。食事は美味しいし、物価は安い!!
ミラノのメトロで若者三人組にお尻を触られたり、ホテルの前には注射器と一緒に、
ドラッグで死にかかった人が倒れていたり、ミラノ空港では管制官のストで飛行機が
飛ばなかったりしたけど、些細なことさ!
『ミラノのスカラ座前』の建物。2階からのぞく‘ご婦人’まで描いてある。右は、『ベローナ市の裏通り』。

少女スリ軍団に取り囲まれる。

最終地はパリ。迷いながら、犬のウンコを踏みながら、やっとたどり着いた「ピカソ
美術館」から、ルーブル、オルセー、オランジュリーとハシゴして、足が棒になって
コンコルド広場からメトロに乗った。発車間際に、中学生くらいの少女三人が乗込ん
できて、電車の中央の「棒」につかまっている私の手に“オッパイ”を押しつけてきた。
おおッ!やばい!!――『パリのメトロで、日本人痴漢が捕まる!』という新聞記事が
脳裏をかすめる。両脇からも残りの二人がぎゅうぎゅう押してくるので、
私は「バンザイ」の格好になってしまった。
ふと気がつくと、電車はそんなに混んでいないじゃないか。また気がつくと、
私のズボンのポケットの中で、小さなお手々がそれぞれ“お仕事中”ではないか!!
……私は、「わぁ!」といって逃げだしたのでした。

オルセー美術館から望む『パリの街並み』と『エッフェル塔と月(?)』…月は残念ながら、ホテル前の“外灯”である。

でも皆、親切だった。

ミラノの赤い車に乗ったお姉さん、二人連れのおじさん、そしてパリの女の娘も、□□
郵便屋さんも…、道に迷っちゃ手当たり次第、「ウィッチ・ウェイ?」を連発したが
(驚くことに)皆、親切だった。ありがたくて、どこの国も好きになった。
ノートルダム大聖堂のステンドグラス『薔薇の窓』。13世紀につくられたもの。

(今は昔となってしまったが、1994.10.10〜10.23の2週間の日程での旅行‘記’でした。)
(2001.8.2)

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