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 旧庄内藩にあっても戦後処理と新しい時代の過渡期にあって困難な事態が頻発した。こうした状況の中、庄内藩中老であった菅実秀は庄内地方の復興と旧藩士、家族の将来を思い、城下郊外地の開墾事業を計画するに至ったのである。松ヶ岡開墾の歴史が動いたのであった。折しも、安政五年(一八五八)諸外国との通商条約が締結されて以来10年余、日本の輸出第一位が生糸であったため、菅もこれに着目し、開墾、桑園の造成、養蚕の道筋を立てる準備にとりかかったのである。
 明治五年(一八七二)、赤川周辺の国有地約10ヘクタールを払い下げてもらい、旧藩士家中の青壮年たち360名によって開墾に着手。次いで土をならし桑の苗を植え大豆を播き、六月からは水害防止の堤防建築作業に就き、七月下旬1,050mの堤防が完成した。この開墾の成功をうけてさらに大規模な開墾団隊が組織され、29組、2,890名が参加した。開墾地は月山山麓後田山100ヘクタール余。起伏のはげしい、いばらの低木と松や杉の巨木が林立する原野である。開墾団隊は開墾具を新調し、半纏、股引、蓑笠、弁当に至るまで整え、鶴ヶ岡城に集合し旗を立て喇叭を吹き鳴らして後田山へと向う。到着すると井戸を掘り木々を伐採して梁柱にし、萱葦を刈り取って屋根を葺き、小屋を建てて休憩宿泊の場所にした。作業は困難を極め傷病者も出たという。それはまた雨風昼夜にわたって行われ、夜間は篝火を焚きながら敢行されて、あたかも戦場の様相を呈した。この壮挙を目の当りにした近隣の住民は、農家はむしろや草履、商家は金品を差し出してこれを支援したのである。やがて幹線道路が出来、周囲は次々に耕地に生まれかわっていった。荒地後田山はわずか58日間の工期をもって竣工となり、30区画の広大な開墾地が完成を見たのである。当時この壮挙は東京の新聞でも報道され称賛された。



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