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 厳しい労働に従事した旧藩士族を激励した旧藩主酒井忠発は、この地を「松ヶ岡」と命名。明治六年(一八七三)に入って、雪の道を利用し延々数十日を費やし塵芥肥料を積んだ橇が耕地に通う。併行して各組頭を養蚕の先進地であった群馬県前橋、福島県伊達、梁川に派遣し桑樹栽培の詳細を調査修得をさせると共に大量の桑苗を発注し、あわせて茶の種も京都に大量発注した。これにより堆巴の施しと植え付け、その間作の茶畑の造成が完了し、隊は次の開墾地へと趣いて行った。
 明治七年(一八七四)八月、いよいよ経塚丘東に大蚕室の建築計画が決定され、均地作業が開始された。鶴ヶ岡城内七ツ蔵の屋根瓦をはぎ取って、これを一人一人が背負い材木と場内に運び込まれ、十月に土台石の胴突きにこぎつけ、基礎工事は開始された。明治八年四月、大工棟梁高橋兼吉の設計施工による木造瓦葺三階建の蚕室4棟と桑入土蔵2棟が竣工を見た。構造は群馬県島村の方式をとり入れた。早速職工を雇い入れ養蚕器具の製作に移り五月にやはり群馬県の実習生らを中心に飼育が始められることになった。この七月には良繭を選別し蚕種800枚の製造に成功、横浜に出荷して好評を得るのである。さらに座繰器械を導入して生糸をつくり地方への販売も行った。大蚕室はその後明治九年、一〇年と続けて竣工させ、全10棟、桑入土蔵、茶製場などが新築した。
 さて、庄内の開墾と団隊の名声は高まって、すでに政府が実施していた北海道の屯田兵制と開拓使に対する模範支援の要請があり、明治八年、開墾士一行227名が札幌にむけて出発した記録がある。五月から九月にかけて開墾作業は終了し、同年九月二五日帰郷した。現在の道知事公館構内には桑園開拓の由来が刻まれた桑園碑が立っている。この年は希望する開墾士の現地移住が散発的に始められていて、家族を伴った人々の移住もあらわれてきたのである。


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