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 光丘の商業政策の特徴はなんといっても自家の商住環境に対する展望の据え方にある。その顕著な例がいうまでもなく砂防林の建設であろう。砂防林植林の計画は光丘の父光寿から始まっている。
 当時酒田商人たちの多くは交通の要衝をなしていた亀ケ崎城郊外の4km四方の葦の原野を開墾し、庄内各地との流通の便を高めようと主張していた。しかし光寿は商人だけの利益より近隣の農家住民の益をも考え、開墾より砂丘地への植林を先行させるべきであると指摘していたのである。光丘もまた光寿の主張を正しく受けとめていた。
 光丘27才、宝暦八年(一七五八)西浜砂防林の植林に着工した。砂山(現酒田市日和山公園西側)に数十万袋に及ぶ砂袋を積み上げ、風に強く根張りのよいグミやネムなどの灌木類を植えていく。それらが定着したところへ松の苗木を植え込んでゆくという途方もない計画が現実のものとなった。この繰り返しの日々は4年もの時を経てようやく軌道にのり、能登半島から取り寄せた数十万とも数百万ともいわれる黒松を植林し続けた。この事業は思わぬ経済効果をもたらした。冬場に無職となる沖仲仕などの仕事になりクワやスキといった作業用具を大量発注することで鍛冶職人が手間賃を稼げ、また砂袋用に米俵を農家から買い上げて収入を助けた等々、植林という土木工事自体が地域の経済活動に活気を与えたのである。以来本間家は植林を継続事業として続けていき、現在に見る砂防林の基礎を築きあげたのである。植林を開始して6年、その成果が現われ、酒田を囲む庄内平野をはじめ田地畑作地が安定した耕作地となり、農産物の収穫も上昇していった。さらにこの植林によって目覚め、恩恵を自覚した各村の首長たちが次々に砂防林延長の事業に加わり巨大な共同事業体に成長したことは他に例を見ないことであろう。そこに、安定した生活環境の創出という目的が生まれ、公平にゆきわたる利益とは何かを眼のあたりにした歴史的な事実なのであった。
 光丘は、自らが商人であることを自認し、その理念を実践してみせた人物である。地域全体が自らの経済活動の基盤であることを知り抜き、その整備活性化こそが一族の繁栄をも支えていくのである、と。
 江戸中期に現われた本間光丘という商人はむしろ光丘自身の戦略的な事業によって豊かな公益性をともなった思想を起こし、後世に語られる巨人となったのではないだろうか。



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