BACK  NEXT

 白砂青松という美しい形容が、南北35km、長さにおいては日本一の庄内砂丘に言いあてられたのはいつの頃だろうか。秀麗な山容の鳥海山が背景にあって、なおこの砂丘の美しさが際立っている。
 55,489haの面積はわが国第二位の広さをもち、鳥取砂丘、吹上浜砂丘に並んで日本の三大砂丘と呼ばれている。幅1.6kmの砂浜に平行して、延々と続く緑色の丘、松林と、潮風や飛砂から護られるように波うつ果樹と花々の畑もまた鳥海山の裾に近く拓かれている。
 江戸時代中期(元禄・宝永年間)まで、酒田港付近一帯は砂山であり、日本海から吹きつける強風は年間を通じて砂嵐を巻き起こしていたという。東日本屈指の港湾都市は砂と戦いながら生きてきたのである。砂は、遠く平野部まで及び、田畑が被害をこうむった例も少なくなかった。事実、この強風と砂塵は港町と城下町を結ぶ幹線交通路にも、庄内の基幹産業である水田を潤す用水路にも多大な影響を与え、藩の農政をまで危うくしかねなかったのである。
 ここに1人の人物が登場する。本間光丘である。既に著名な一族となり莫大な財を成して商人資本家としてのゆるぎない地位を確立しつつあった酒田本間家の三代目当主である。光丘は家督を継いで間もなく、初代原光、二代光寿、また光寿を補って本間家の資産を数倍にふくらませた叔父の本間宗久らの経営方針を一転させた。特に宗久が得意とする相場や投機に偏った商法を一旦排除し、堅実な事業を柱とする独自の経営指針を打ち立てようとするのである。光丘23才の若さである。
 もともと本間家は先祖を相模国にもち、鎌倉時代に佐渡に渡ったといわれる。後に一族は越前と越後に分かれ、永禄年間酒田に移り住んだ。現在に至る本間家は元禄二年(一六八九)屋号越後屋(又は新潟屋)として市内に開業し、代々港を中心にした商取引業、金融業、地主などによって資産をつくったとされている。
 本間光丘は享保一七年(一七三二)酒田で生まれた。寛延三年(一七五〇)19才の年、父である二代目光寿によって播磨姫路の奈良屋権兵衛へ修業に出された。修業先の主は馬場了可という卸商人で、近畿地方の儒学者たちにとってはパトロンであり、なおかつ自らも学者として名を知られる人物であった。その事情から奈良屋はさながら儒学塾のようであり、光丘はここでいわば哲学と経済学を身をもって学習したことになった。3年の修業を終えて、宝暦三年(一七五三)光丘は酒田に帰郷、そして本間家三代目を預かる日を迎えるのである。


Copyright (C) 庄内広域行政組合. All Rights Reserved.