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 迎える明治一一年から一七年頃、蚕室建設26棟の計画は遅延し、桑園は労力の不足と資金難によって一時荒廃をよぎなくされた。しかしこの時期だからこそと志をあらたにし、創業10年の節目にもあって「松岡社誓約書」を作成した。開墾場へ移り住んだ家族は困窮を極めていた。豆の栽培、網張りと鉄砲で獲ったものを売り捌き、茶を売り歩いて飯米や味噌、醤油、灯油などにかえ、飯は皮付きの馬鈴薯、大根の茎や葉などを入れたカテ飯でしのいだという。この時期をのり越えて再び復興の兆が見えたのは一八年に入ってからである。耕馬の購入と多様な作物の栽培によって桑園も回復して鶴岡市内に製糸工場の建設をも実現した。
 明治三四年(一九〇一)、20年前作成の誓約書は改訂された。松ヶ岡開墾は明治四年廃藩に際し、士族一般文武の常職を解かれたるに當り、向来廉恥節義の素養を失い、各自利己の蛮風に陥らんことを憂え、同志結合し銃を鋤に換え、荒蕪不毛の地を開拓し、桑を植え蚕を養い、一は以て国産を起し富強の基を開き、一は以て力食の途を立て、以て報国の志を表せんことを誓盟せり、爾来幾多の艱難を経、開墾に従事する殆ど30年、今や事業漸く緒に就かんとす、将来継紹者の或は起源を判明せずして、其の主旨を誤らんことを憂慮し、前盟を尋て誓約する條々左の如し。

 前出の酒田山居倉庫、そして松ヶ岡開墾場はそれぞれに「綱領」をかかげた。主旨は今や古色を帯びているが、これらは確かに生きているように思える。この綱領に共通する理念というべきものが生きつづけているといっていいと思う。それは、地と農とに直接関って一時代の荒海に船出した船員たちの志をうたいあげ、そこに貫かれた魂のカタチなのである。



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