ウイーン市(Wien:オーストリア)


【ドナウ河概要】

ドナウ河は南ドイツの「黒い森」(シュバルツバルト)を源とし、オーストリアを横切り、東欧 など8カ国を流れ黒海に注いでいる。ヨーロッパで唯一“西から東へ”流れる大河で、全長 2,860km、ボルガ河に次ぐ長さを有している。その沿岸にはウィーンをはじめブタペスト、べオグラードなどの首都が位置して いる。

古くからヨーロッパの重要 な交通路として、また軍事上、商 業上の大動脈として重要な役割を 果たして来ている。


ウィーン市内を流れるドナウ河は、かつては本流、支流に分れ激しく蛇行を繰り返し、しばしば洪水を引き起こしてきた。そして、その度に流れが変わるなど周辺は湿地帯となり市の発展を大きく阻害する状況となっていた。そのため、1870年より改修が進められ、現在では第二次改修計画の完了と共に一大レクリエーションゾーンとして活用が図られている。

ドナウ河風景(左側が「ドナウ・インゼル」、つまり『ドナウ島』)
【要  旨】

たび重なるドナウ河の氾濫から街を守ると共に、湿地状態となっていた土地の有効利用を図る 目的で、1870年より(第一次の)ドナウ河の改修が行われ、5年後の1875年に完了している。こ れは、蛇行する河の“頭”と“尾”を直線的に結び運河を造ったものである。運河は二重断面で計画され、通常は川幅 280mの部分(本流)を流れるが、大雨により洪水量となった場合には本川と右岸堤防までの幅 450mの「氾濫ゾーン」を設定することにより、

毎秒1万1千7百立方bの最大流下能力を確保するものであった。しかし、1897年、99年と毎秒1万立方bの流量を記録し、災害の発生は紙一重で回避できたものの、この計画では不十分であることが、明らかとなった。この結果を受けて再度、改計画の練り直し作業に入ったものの、第一次、第二次の両大戦の勃発により中断せざるを得なかった。
 
治水局長のMr.F.ミヒェルマイヤーと担当者。(皆とても親切だった)  

ウイーン市役所(!)

しかし、1954年に再び毎秒9千6百立方bに達する洪水量を記録するに至り、最重要課題として検討作業が開始された。事業推進のためプロジェクト・チームがつくられ、建築家、生物学者、 法律家等からなる専門委員会や市民に対する公聴会等により、改修計画、開発構想が固められ、 1969年には第二次ドナウ河改修計画(案)が策定されている。1971年には改修工事が開始され、総工事面積で約300ha、総工費80億シリング(8百億円)を費やし、1991年に完了している

この第二次改修計画は検討の課程で、最優先事項として、以下の3つの条件を満足することが 求められた。
 @予測可能な最大流量として、毎秒1万4千立方bを満足すること。
 (過去最大の洪水の記録として、1501年に発生。3000年!確率と推定)
 A河床を掘り下げることによる、ドナウ河左岸の地下水の水位の低下を防止すること。
 B最終的に沿岸一帯をウィーン市民のレクリエーション(憩い)の場として活用すること。
これらの条件を満たすために、次の方法が考えられた。


 
ドナウ河のほとりに建設された「国連の建物」  
まず第一に、1870年改修当時の“運河”である既存のドナウ河本流を掘削せず、並行して新たなバイパスを放水路として造り、年1〜2回の洪水量に対しては両水路を併用することにより、上記の最大流下量を確保する。第二にバイパスの両端及び中間点に堰(水門)を設け平常時にはバイパス内の水位を一定に保ち地下水位の低下を防ぐ。そして、本流に並行してバイパスを造ることにより、両水路間に「島」状の“中州”ができることになるがその中州(及び周辺)に、バイパスを掘ったことにより生じる残土(約2千5百万d)を利用して、レクリエーションゾーンとして整備を行う

そして計画は進められ、現在、このバイパスは“新ドナウ河”、バイパスを造ることによりでき きた中州がドナウ・インゼル(ドナウ島)と呼ばれ、市民の憩いの場として親しまれている

ウォーターフロント・レクリエーションゾーンとして整備されたドナウ・インゼルは、幅70〜210m、長さ約21km、総面積で 215haとなっている。そして新ドナウも含め“自然のまま”を基本理念とし、次のことが前提とされている。
一、新しく整備される地域は、全てレジャーとレクリエーションに利用する。
一、この地域及び新ドナウの両岸に沿った部分の自動車の通行は禁止する。
一、ドナウ・インゼル北部と南部及び新ドナウは自然環境の保全に努める。
一、ドナウ・インゼルの中央部分に横断幹線道路(橋)を造る。
一、ドナウ・インゼルには地下鉄を乗入れ(ウィーン市内から約10分)を図ると共に、市電、 バス、フェリーによるアクセスを可能とすること。


 
対岸より、「ドナウ・インゼル」を望む   「ドナウ・インゼル」

新ドナウは、勿論「洪水災害の防止」が第一の目的であるが、年に1〜2回の大雨の時を除けば洪水調節用の水門(3箇所)で閉じられ、細長い“湖”として利用が可能であり、普段はボート競技、水泳、水上スキー、ウインドサーフィン、ヨット、釣等のあらゆる水のスポーツに利用されている。また、ドナウ・インゼルには約60kmの遊歩道が整備され、サイクリング、ジョギング、 また散策路として利用される他、サッカー、バレー、ハンドボールバスケット、そして冬期間にはスケートやクロスカントリー等、数多くのスポーツを楽しむことができるる。さらに、キャンプ場、バーベキュー施設、レストラン、パブ、ディスコ、展望台、屋外コンサート会場等々のレクリエーション旋設が配置されている。中には、身障者用水泳場や「ヌーデイスト」専用の沐浴場まで作られ、安い料金で楽しめることもあり、周辺を含め一大リゾートゾーンとして。賑わっている。5月から9月のシーズン期間は平日でも5万人から9万人、晴天の週末には30万人以上が訪れる盛況となっている。

また、今年10年目を迎えた「ドナウ・インゼル・フェスティバル」には2百万人が押しかけたということで、これまで“水”に親しむには最も近くでも70km、夏のリゾートを過ごすために1ヶ月以上の長期休暇を取っていたウィーン市民はじめ近郊の人々には、生活スタイルを変えるほどの魅力を持ったレジャーポイントとして歓迎されている。

しかし、既存の自然の生態系、自然環境をできるだけ守るという基本理念が貫かれ、例えばドナウ島内の道路は舗装せず、さらに新たな林や池・湿地帯等も造るなど、生態学的にも十分な検討が加えられているとのことであった。
 
1ヶ月前に開校したばかりの“中学校”   岸に固定されているが、水位で「上下」するようになっていた

このプロジェクトに要した総建設費の80億シリング(8百億円)は、国とウィーン市が2分の1ずつ負担している。また、この施設等の地域全体の年間維持費は3千万シリング(3億円)、それに対し施設使用料等の収入が3百万シリング(3千万円)となっている。多くの施設が無料か安い料金設定となっていることもあり、国から3分の1の補助があるとはいうものの収支は赤字となっている。しかし、利用状況を見れば分るとおり、それらを補って余りあるものを利用する人々やウィーン市民に与えているといえる。

この広大なドナウ河畔に2連の大きな船が係留されていた。開発地域は“全てレジャーとレクリエーションに利用する”との基本方針から、「用地不足」の中学校が“船”として作られ、この9月に開校されたばかりとの話であった。原則を守る律義さと発想の豊かさに国民性の違いを感じた一コマであった。

【感想及び所感】

ウィーン市は、13世紀にハプスブルグ家が神聖ローマ帝国の首都と定めて以来 640年間、20世紀のはじめまで、 強大なオーストリア帝国の中で政治・文化・芸術面での文字どおり「ヨーロッパの中心」として栄えてきた長い繁栄の歴史がある。

しかしその後、帝国の崩壊、そして第二次世界対戦ではドイツ帝国の一部に取り込まれたことから、大戦後は仏・英・ソ・米の分割統治を受けることとなる。1955年には永世中立国として独立するものの人口750万人、国土面積も北海道程度と、ヨーロッパでも『小国』となり現在に至っている。

ウィーン市は現在、人口160万人、面積が400kuと、ほぼ札幌市に匹敵する都市である。旧市街はトルコなどの外敵に備え「城壁」に囲まれていたため、周囲4kmのリング(Ring=城壁跡の環状道路)に囲まれた地域に主要な歴史的建物、文化施設が集中しており、とても美しい都市景観を保っている。街の中は観光客も多く、賑わっていたが、特に土地の「老人」たちに“暗い表情”をしている人が多く気になった。老人に限らずウィーン市民には、未だ、「ウィーンはヨーロッパの中心」という意識が強いということで不幸な歴史の後遺症が残っているのかも知れない。「平均寿命が70歳位なんですよ」と現地ガイドが教えてくれたが「食習慣」等の理由だけでは説明できない原因があるのではと(勝手ながら)私には思われた。
ベルベデーレ宮殿の中庭にある石の像

しかし、ドナウ河のほとりに遠足に来ていた、保育園の子供たちの、元気で屈託のない表情を思い出すと、この国の「未来」はさほど暗くはないのかもしれない、とも考えているところである
ドナウ・インゼルに「遠足」にきていた、保育園の子供たち
1994.10.14.Fri. 9001400

(2001.8.6)

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